こんにちは、MIURA HOME 広報担当者です。
今回は、弊社の【創業ヒストリー】について
創業者である三浦榮子会長にインタビューさせていただき、その内容をまとめてみました。
目次
1.幼少期と戦争
2.長崎での成長と働く喜び
3.東京での経験と帰郷
4.家族と事業の発展
5.一人での経営とその後
6.最後に
幼少期と戦争の影響
今から遡る事、87年前。
三浦榮子は1937年1月30日、本籍は長崎県でしたが福岡県で生まれました。
彼女は8人兄弟の長女として生まれ、戦時中の混乱の中で幼少期を過ごしました。
福岡は頻繁にB29爆撃機が上空を飛び回り、その影響で日常生活は常に不安に包まれていました。榮子の記憶の中には、夜中に防空壕へ避難する光景が鮮明に刻まれています。特にある夜、家族と就寝していた際に、空襲警報の鐘がなり避難を余儀なくされました。他の妹弟たちがまだ小さかったため、榮子だけが取り残されるという恐怖を味わい、その経験は彼女の心に深いトラウマとして残り、終戦後も、「防空頭巾などの防空用具を枕元に準備してなければ入眠できませんでした。」と仰ってました。
父親が徴兵を機に、他の妹弟たちがまだ幼子だったため、長男のトシオ氏と長女の榮子は父親方の叔父夫婦(長男)に引き取られ小学3年生の時、福岡から長崎へ転居しました。子供が出来なかった叔父夫婦は、当時高価な卵を毎日食べさせてくれるほど、ものすごく可愛がってくれました。
1945年8月9日11時2分 榮子が8歳の時、長崎で原爆の閃光ときのこ雲、被爆者を目撃しました。
幸いご自身は、爆心地とは離れた雲仙市愛野町にある千鳥川での水遊びをしていた最中だったため無事でした。
しかし、突如として現れたその光景は、彼女にとって一生忘れられない出来事でした。
終戦後、榮子以外の家族も長崎に転居し、彼女の新しい生活が始まりました。
長崎での成長と働く喜び
小学校高学年のころ、彼女は夏休みの間に農協のマッチ売りを手伝ったり、畑仕事をしたりすることで、働くことの喜びを感じていました。
幼少期から「働くこと、お金を稼ぐことが好きだった」と語る榮子さんにとって、これらの経験は単なる労働ではなく、自分自身を成長させる貴重な時間だったのでしょう。
中学生になると、榮子は洋裁に興味を持ち洋裁を習い始めました。
当時、ミシンはまだ高価なものであり、一般家庭ではあまり普及していませんでしたが、育ての親である叔父が榮子のためにミシンを購入してくれました。このミシンが彼女の人生に大きな影響を与えることになるのです。榮子は、襟付きのフリルワンピースなど当時にしては目新しい独自のデザインで妹弟たちに洋服を作り、その度、周囲の大人を驚かせました。
そのミシンは現在も「ミウラホーム」にて大切に保管されています。
東京での経験と帰郷
1955年 榮子は高校を卒業し、東京の恵比寿にある「東京高等技芸学校」に進学しました。
この学校での学びは、彼女のファッションセンスをさらに磨く貴重な経験となり、東京での生活は彼女にとって新しい挑戦の連続でもありましたが、同時に夢を実現するための第一歩にもなりました。通学しながら、新宿マルイにある洋裁店で実際の仕事も経験し、当時の流行など業界の動向、技術や実務、商売の在り方を学びました。
1960年 23歳の時、諫早水害が発生しました。
この災害を機に、榮子は故郷の長崎に帰郷しました。
帰郷後、雲仙市愛野町にある山口畳店の2階で洋裁教室を開講し、地元の人々に自分の技術を伝えることに努めました。
帰郷してすぐの開講に迷いは無かったのか尋ねたら「どこか他の企業に就職する考えには至らなかった。」と仰ってました。
この時期の経験や、人との出逢いが彼女の後の事業展開に大きな影響を与えることになります。
家族と事業の発展
1961年 榮子24歳で結婚。
翌年の1962年 第一子、浩昭(現社長)が生まれました。
続いて、1964年には第二子の大我が誕生し、家族が増えました。
しかし、上京していた昭義氏(旦那:当時29歳)の兄弟(長男)が帰郷したため、諫早に転居しました。
6年後の1970年 33歳の時に雲仙市愛野町に戻り、洋裁店「ミウラ美装」を開店しました。
「美装」という名前には「美しい装い」という意味が込められており、地元の人々に親しまれる店となりました。
ここで彼女は、町民の洋服やカーテンなどの洋裁を展開し、地元のニーズに応えるサービスを提供しました。
それから3年後の1973年、町会議員として役所に務めていた昭義さん(当時38歳)が役所勤めを退任し、これまで榮子 一人で営んでいた洋裁店から、ご夫婦二人三脚でカーテンやペルシャ絨毯などのインテリア販売や内装工事に乗り出し事業を手広く拡大して行きました。
その当時は、「IKEA」や「ニトリ」などの現在では当たり前にある、インテリアホームセンターなどがまだ無く、障子や襖、畳などで作られた和式の家屋が大半でした。だからこそ洋式建築のフローリングやクロスを取り入れた新築住宅には、「ミウラ美装」が取り扱うカーテンや絨毯は需要高でした。
1975年 現在の「ミウラホーム諫早営業所」所在地である土地を購入し、新たな拠点としました。
この新たな拠点は、榮子さんご夫婦の事業の発展に大きく寄与することとなります。
一人での経営とその後
1979年 最愛の昭義氏が享年44歳で突然の他界。
家族の生活が一変しました。
息子の浩昭は当時高校3年生であり、浩昭の力も借りながら女手一つでの経営がスタートしました。
これまで夫婦二人三脚で頑張ってきた榮子は一人で家計を支えながら、ミウラ美装の発展に力を注ぎました。
簡単に悲しみから立ち直れた訳ではありませんでしたが、周囲の人から支えられた榮子の決意と努力は、家族や地域の人々に感動を与え、いつしか皆を励まし、頼られる存在になりました。
1988年 榮子51歳「有限会社ミウラ美装」を設立しました。
これは彼女にとって大きな節目であり、仕事への情熱を証明する瞬間でした。
都内にある建築専門学校卒業後、家業を支えるべく長崎に戻った浩昭は、この時26歳。
今度は、親子での二人三脚として会社は新たなステージへと進んでいきました。
最後に...
時代と共に歩んだ50年
三浦榮子会長の人生は、戦争や災害、社会の変革といった多くの困難に直面しながらも、自分の夢を追い続けた力強いものでした。
現代社会において女性活躍を推進されていますが、会長が起業した約50年ほど前は、男尊女卑の時代背景...
それに加え、終戦後の日本の高度経済成長期やオイルショック、バブル崩壊など...
決して女性起業家としてビジネスをするのは容易ではなく、苦悩と苦労の連続...
そんな最中、42歳にして最愛の昭義さんとの死別...
会長が起業した時代は女性での起業はあまりにも苦しく、困難だったことがよくわかります。
現代社会を逞しく生きる女性の先陣となる姿は、仕事や世代の垣根を越え現在も多くの人々に勇気と希望を与え続けています。
会長の努力と苦悩を見守り、共に支えてくださった皆様があっての50年続く企業になっているのだと感じました。
現在は、会長の孫である恭輔(29歳)が大学院卒業後都内で下積みを経てミウラホームに就職されました。
次世代のセンスと古き良き文化で、唯一無二の「ミウラホーム」クオリティが継承されようとしています。
これまで皆様と築き上げてきた50年の信頼と実績で、これからの新しい50年も皆様と共に...
今後とも変わらぬご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。